フォトマガジン『FOTO ARC』2022 autumn Vol.2
PRASADA(プラサーダ)
仏教と写真と心の浄化について
河上 朋弘 KAWAKAMI,Hougu
わけのわからない観念や価値観を、押し付けたり刷り込んだりしようとするものだと思われているからでしょうか。宗教や信仰というと、どこかあやしげでうさんくさいものとして敬遠されがちなような気がします。お寺の住職としてそれを生業としている私がいうのも何なのですが、現代の日本の社会においては、伝統のものであっても新興のものであっても、宗教や信仰というものそれ自体が、人々の生活から離れて必要の無いものになっているかのような気がします。
一方、娯楽や趣味はとても重要とされていて、現代人の生活に「推し」や「萌え」は無くてはならない必須のものになっています。思うようにはいかないことばかりの日々のなかで、自分を元気にしてくれたり、癒してくれたりするものはとても大切で、アイドルであってもヒーローであっても、苦痛に感じる現実から逃避させてくれるものであれば、何でもいいから夢中になっていたいという気持ちはよくわかります。それほどに今を生きるということは、楽ではないということです。仏教でも私たちが生きるこの世界を「娑婆(しゃば)」と言って、「煩い悩み苦しみ多いところ」と言われています。
生き辛いこの世界にあっても、どうにか居心地のよい時間を過ごして、気持ちを楽にさせていたいと思うのは自然なことで、人間として生きていくための本能なのでしょう。自分にとって好ましく感じる世界に没入していられるようなことでもないと、やってられないものだと思います。気持ちをすっきりさせられるような、うっとりさせてくれるような、そんな場所や時間が、人間には必要です。趣味や娯楽にハマっているということは、人にとってとても大切なことなのだと思います。
この『FOTO ARC』は写真雑誌ということですが、私は写真集を眺めたり、フォトギャラリーで時間を過ごしたりすることが大好きです。単純に美しいと感じるものや面白いと思えるものを目にすることは、心に喜びや安らぎや楽しみをもたらしてくれます。日常的に当たり前とされている観念や価値観からドロップアウトして、ハッとしたりドキッとしたりゾクッとしたり、世界の不思議に気付かされるような、そんな感覚になれることもあります。
優れた芸術には共通して言えることですが、素晴らしい作品との出遇いは、人に「浄化」をもたらすのだと思います。圧倒的な何かに包み込まれて心震えるような体験は、心も身体もだる重くどんよりと澱みがちな私に「いま生きている」という感覚を与えてくれます。素晴らしい芸術作品は、思い込みや決めつけに閉じこもりがちな私の心に、すーっと吹き抜ける風穴を通してくれます。
宗教における「信仰」という観念には、信じ仰ぐべき対象があってはじめて成り立つものであって、そこには、信じ仰ぐ者と信じ仰がれる者の二つが必ずあります。そしてそれらの二者の間には、主体と客体を隔てる歴然たる分別の線引きがあります。それは、写真というものが、撮影者と被写体、画像と鑑賞者のようにして、主客が対することによって成り立つ関係性にも重なります。
被写体となる題材に対して殊更に強い関心を抱いて、熱心にそれに対して向き合うような、積極的な写真との関わり方があると思います。けれどもそれは、自分がいる此方(こちら)とは別の彼方(あちら)に対象を置く、主体的ではありながらも、あくまでも客観的な関係性のものです。それはちょうど、程よく離れた所から推しや萌えを愛でることや、宗教的な象徴やカリスマに傾倒して崇拝することにも重なります。
しかしながら、私にとっての真に感動的な芸術との邂逅とは、ふとした瞬間に、見るものと見られるものの境界がとけてなくなってしまうような、時間と空間を越えてつながっているかのような、ふたつでなくひとつになってしまうような、そんな不思議な体験であって、それはおそらく、未知なるもの、永遠なるもの、人間の分別を超えてあるその領域に、思わず触れてしまうような「気付き」の体験であると思うのです。
仏教に説かれるところの「信心(しんじん)」の語源は、サンスクリット語の「プラサーダ(prasada)」という言葉です。このプラサーダという言葉には「濁った心を浄化するはたらき」という意味があって、心が澄んで清らかになることを表します。一般的に「信心」というと、特定の宗教に凝り固まって頑なに信じ込んでいることかのように思われそうですが、本来の「信心(プラサーダ)」とは、それとは真逆の心です。
真夜中の山道を月明かりを頼りにして歩みを進めていくと、暗い森の木立を抜けたところに、湖が一面に広がっています。その鏡のような水面には、満天の夜空に輝く星々がそのままに映り込んで、しーんと静まり返っています。そんな景色を想ったときの、すーっとして清らかで、ほっとして快い、覚醒して澄み切ったような心の状態が、本来の「しんじん(prasada)」です。自分の内に溜め込まれていたものが澄んだ空気に解き放たれて、気持ちが楽に、安らかになるような、心の隔てが無くなって、聖なるものに浄化されきったような状態です。
私にとっての仏教は、自分の人生に無くてはならないものとしてあります。それは特定の宗教に対する信仰というよりも、信心(まことのこころ)に触れて、気付くことそのものです。私の心はすぐに澱んで濁ってしまいますが、そんな我心を遥かに越えて包み込むような、大いなる心、浄らかな心、聖なる心、プラサーダのあることを、仏教は伝えているのです。
たまたま出遇えた写真とのふとした瞬間に、思わずそれに触れてしまうような、そんな「気付き」の体験をすることがあります。境界がとけてなくなるような、時空を越えてつながるような、ふたつなくひとつになるような。写真芸術からもたらされる、プラサーダであると感じています。
写真:本多 元