東岩瀬古道・御鷹道

岐阜県の飛騨地方を水源とする神通川(じんずうがわ)は、富山県境を流れては多くの支流を集めて大河川となり、やがて富山湾へと流れ出ていきます。その河口の西側には草島や四方といった地域の位置する「西岩瀬」、そしてその東側に「東岩瀬」があります。

古代から中世の時代にかけては、西岩瀬の一帯を中心として町が形成されていたようで、その頃の東岩瀬は浜街道のほとりの小さな一農漁村に過ぎないものであったと思われます。古文書の上で「東岩瀬」の地名が登場するのは、元亀三年(1572)の『上杉謙信書状』が最も古いものとされています。

慶集寺の由緒には、東岩瀬の黎明期であった中世の時代より、現在の境内地にその前身となる道場を構えていたと伝えられています。

現在の東岩瀬の住所の中にも「東岩瀬村(仲町・境町・表町・等)」という地名がありますが、この地区は古来から「永割(ながわり)」と呼ばれており、約五百年前の東岩瀬において最初期の開拓がなされた集落であると伝えられています。その頃の東岩瀬の神通川沿岸はまだ町立ての始まる前なので、現在の岩瀬大町通りの周辺は、人の住んでいない水辺の畠地が広がっていたと思われます。

当時の永割住民は、集落から神通川までを往来するための通路として、慶集寺(前身道場)の前を通る道を利用していたことが想像されます。

時代は下って江戸初期の慶長十四年(1609) 未曾有の大洪水と高波による海岸侵食によって、西岩瀬の地域は流出し、悉く水中に沈んでしまいました。この災害によって、加賀藩の大名行列が西岩瀬を通る往還道のコースは変更されることとなり、西岩瀬に居住していた多くの人々が東岩瀬に移住してきます。そうして東岩瀬の町立ては大きく進んで、神通川河口近辺の地域に「宿方」と「浦方」と呼ばれる新しい区域が形成されていきます。「浦方」とは在来の東岩瀬農漁村の居住範囲から拡大形成されていった区域であり、「宿方」とは外部地域から転入してしてきた人々によって形成されていった区域になります。

その後の万治年間から寛文元年(1658-1661)にかけての度重なる神通川の転流によって、寛文二年(1662)には東岩瀬が新しい宿駅として公的な指定を受けます。御蔵や御郡所など、加賀藩の公施設が建設されたことを契機として一挙に町づくりは発展し、東岩瀬は越中における政治・経済・交通上の要所となっていきます。

上の絵図は、寛文年間(1661-1673)の頃の東岩瀬を推測して作製されたものです。現在の大町通りを南方向に進んだところでつながる新川町通りは、その当時にはまだ開通しておらず、そこには加賀藩の参勤交代が利用するための「御旅屋(おたや・休憩宿泊所)」がありました。そこから「御郡所(おこおりしょ・現在の松原町辺りにあった郡政役場)」までを往還する道中にある、現在の大町通りから東岩瀬村(永割)をつなぐ細い道の途中区間が、慶集寺の境内地前の通路になります。

この道は、江戸時代には「御鷹道(おたかみち)」と呼ばれていて「公の道」として利用されてきました。

そして今もなお、東岩瀬地域の歴史的古道として、数え切れないほどの記憶と足跡を遺し続けています。

グラフィック作成:竹内健人

東岩瀬の歴史についてより詳しく調べたい方は、慶集寺第十七代住職・故 河上省吾の遺された郷土史料をご覧ください。

①東岩瀬古道・御鷹道(おたかみち)

②東岩瀬の成り立ち

③東岩瀬のお寺