③03. 世間虚仮 唯仏是真
現在にまで伝えられている聖徳太子の言葉に「世間虚仮 唯仏是真(せけんこけ ゆいぶつぜしん)」があります。まず「世間虚仮」という言葉の意味は、私たちの生きる世俗の社会にあるものは、すべてが空虚な仮のものであるということです。
ものごとの善悪や正誤や、勝ち負けや損得などを決める判断基準は、仮に設定されてあるものでしかなく、その基準は状況によって変わるものであって、絶対的なものではないということです。判断基準が変わればそれに伴って、善悪や正誤や勝ち負けや損得などの捉え方は変わるということです。
どんなルールで勝ち負けを決めるか。
どんな価値基準で損得を判断するか。
何を判断基準として善とするか、悪とするか。
何を目的として、正しいことと誤りの違いを定めるか。
物事を判断するための基準は、人によっても異なるし、時代によっても、社会的な常識によっても異なります。ですから、どんな時代のどんな地域でも絶対に変わらないという基準などないはずです。
上から見れば四角に見えても、横から見れば三角に見えるのが、三角錐です。上から見れば円に見えても、横から見れば三角に見えるのが、円錐です。上から見れば円に見えても、横から見れば四角に見えるのが、円柱です。一つのものであっても立場が違えば、見え方も違います。
私たちはそれぞれの思い込みや決め付けでこの世界を見ています。それぞれの人々が自分の見ているものを真実だと思っていますが、世界は多様に現れるもののようです。
自分が見ている事実が、必ずしもみんなで共有し得る真実であるとは限らないのです。自分の視点で見ている世界は、仮想的に存在して見える幻のようなものだということです。
次に続く「唯仏是真」は、仏の存在こそを、真実として捉えるべきであるという意味です。
ここで注意しなければいけないのは、太子は、人間存在に似た形をとって表現される仏のことを「真実」であると主張されているわけではないということです。
すべてが仮想に過ぎないこの人間の世界において、言葉で語られたり、眼に見える姿として描かれたりする仏は、もちろん「仮相」のものでしかありません。
目には見えないし語ることもできない真実を、現実に映して私たちに伝えようとするのが「仏」であると、聖徳太子は示されているのです。
言葉や形として仮の世界に現れた仏から、あなたは「真実性」を受け取ることができるでしょうか?
疑いようのない実感を伴う「実存性」を受け取れるでしょうか?
ただその偶像を崇拝するのではなく、仏が説かれた真理を学びなさい。
あなたが疑いなく信じられる、永遠自然の法則を認識しなさい。
すべてははかないこの世界で、仏法は頼るべき確かな拠り所です。
真理に目覚めて真実を体現する仏を、あなたの導き手としてください。
自分自身に執着せず、真実を体現するような生き方を志してください。
それが「世間虚仮 唯仏是真」という言葉が伝えようとする
聖徳太子からのメッセージであると、私は受け取っています。
① 日本のスピリチュアリティ
01. 日本人の仏教観
02. ありがとう おかげさま
03. 仏と一つに成る
04. 彼岸からの光
② 仏の教えと大乗思想
③ 聖徳太子の仏法
03. 世間虚仮 唯仏是真
④ 親鸞聖人が伝える信心
⑤ 南無阿弥陀仏を聞く