東岩瀬の成り立ち -往環道を中心に-

東岩瀬の成り立ち -往環道を中心に-

河上省吾

◇はじめに

 何十年ぶりかで、生まれ故郷の東岩瀬へ帰った人が、「町の様子が昔と少しも変っていない。」と感想を洩らされるのを何度が耳にしたことがある。勿論その人達も、東岩瀬の町が、大正十五年に東岩瀬港を修築して以来飛躍的に発展し、富山北部工業地帯となって周辺が大きく変貌したことを知らないわけではない。明治二十二年に東岩瀬村七十町歩、西宮村三十町歩、合計百町歩(三十万坪)以上もあった田地が今や皆無という有様である。しかし、東岩瀬の家並の明細を描いた最も古い「宝暦の絵図」(一七五一~一七六四)と現在の町を比較してみると、既に廃絶した道や、後年新設された道があるにしても基本的構造においては殆んど変化が無かったことがわかる。その間、東岩瀬のほぼ全域(現在の東岩瀬町は明治二十年以前は宿方、浦方、東岩瀬村〔でんじがた〕西宮村の四ケ村に分立していた)を焼き尽した寛政四年(一七九二)の大火をはじめ、度々の大火にも関わらず、密集した家並が区劃整理されることもなく、そのまゝの形で残ったことは、その後の古絵図を見ても明らかである。大通りや脇道、裏通り、何気ない小路のたたずまいの中にも、それぞれの由来を秘め、かって生活の道として生々と機能してきた歴史の影をとどめている。古道を語ることは、郷土の歴史を語ることだ。今回は、その東岩瀬の古道のうち、往環道の変遷を、古記録や古絵図、先輩の研究にもとづいて話してみたい。

◇浜街道

 古文書の上で東岩瀬の名がはじめて登場するのは、元亀三年(一五七二)の上杉謙信書状であり、次いで、天正十一年(一五八三)の上杉景勝文書に、寺崎民部左衛門の拵えた要害が東岩瀬にあったことが記されているのはよく知られている。その頃の東岩瀬は、浜街道のほとりの一農漁村に過ぎなかったのであろう。縄文後期から古墳早期にかけての土器や石器の出土する岩瀬天神遺跡は、二・五米の等高線上にあるが、この大村境の比較的高燥の地に生活していた人達が、常願寺川扇状地北西端の肥沃の土地を開拓して永割(今の堺町、表町、仲町付近)に聚落をつくったのは、今から四百五十年前と伝えられる。一方、「アイガメ」の好漁場を舞台に漁撈を業とする聚落が、浜街道の辺り(白灯台付近)にあった。古代から浜街道は海岸線に沿ってあったのである。

◇慶長の路線変更

 下って江戸時代、加賀藩侯参勤の往環道のコースは、はじめの頃は、小杉→下村→利波→打出→西岩瀬→〔岩瀬の渡〕→東岩瀬 であったという。打出からは海岸線に沿った浜通往環道が西岩瀬、東岩瀬、水橋、滑川へと通じた。その頃、西岩瀬は神通川の川口港として繁栄し、家並を連ねる宿場町であった。所が、慶長十四年(一六〇九)未曽有の大洪水と高波による海岸侵食によって西岩瀬の地は流され悉く水中に没してしまった。その為、近くの窪村へ移転したが、浜通往環道の宿駅としての機能は失われ、渡場も危くなったので、前田利長の命により、少し上流の草島・千原崎・今市の出合地が新しい渡場となり、往環道が附替えられた。慶長十四年以後は、小杉→下村→利波→打出→西岩瀬→今市…〔草島の渡〕…草島→千原崎→東岩瀬 のコースを辿ることになる。更に元禄以後は、小杉→下村→利波→八町→布目→八幡 を経て草島に至る新往環道が開かれることになる。(参考・保科斉彦氏「神通川下流の渡場と加賀藩侯の往環」)地形的にみて、四キロ余りの近接した位置に並ぶ四方海底谷と東岩瀬海底谷(アイガメ)の存在が神通川の流れの方向と範囲を決定する。はじめ打出、四方間に注いでいた神通川主流が、天正八年(一五八〇)に西岩瀬の東側に遷り、更に、僅か八十年にして万治年間(一六五八~一六六一)に東岩瀬へ転流することになるが、両海底谷に臨んだ海岸線は、元の西岩瀬を中心に深く侵食され、低湿なデルタとなっていた。貞享元年(一六八四)の草島地図に、海岸線に並行して「此跡、御上下之時分御舟道堀川跡」と書いた堀川がある。浜通往環道があった頃、西岩瀬の渡場から神通川(古川)を渡り、この堀川を通って東岩瀬に達したものであろう。こうして神通川岸の安定した地を辿って草島、千原崎を迂回し、西宮村、東岩瀬村と往環道が北上し、再び浜通往環道に接続するあたりがわが東岩瀬浦方、更に宿方の発生の地であると推定せざるを得ない。それは現在の富山港内、岩瀬運河入口から灯台にかけての一帯であろう。往環道変更二年後の慶長十六年(一六一一)に西岩瀬六郎左衛門が、役儀等(各種租税)の軽減を願う連判状の内容は、当時の東岩瀬が農漁村として豊かであり、西岩瀬に代って町立が伸びはじめていたことを伝えている。「ひがしいわせは田地おゝく御座候。ことにひきあみ、てぐりあみ弐拾たうあまり御座候間、御役儀はおゝく御座候。ちわらざきにわたりたち申候へば、ひがしいわせはかいだうに成申し上下のだちん、人あし御座候。」とある。

◇宿方・浦方の成立

 岩田忠益翁以来の東岩瀬郷土史は、神通川東遷について、慶長説と万治説の両説を立て、又宿方、浦方の成立については「寛文二年説」を立てて、「万治の転流後港が開かれて急激に町づくりが進められ、寛文二年(一六六二)新宿が置かれた時、これに対し固有の東岩瀬を浦方と称し、海面を所有し船役を負担した。宿方は駅馬の義務を負担した。」というのが定説化している。しかし、転流から僅か一、二年の間に、一農漁村から宿場町への変身が可能であろうか。森田柿園(『越中志徴』編著)ならずとも疑念の生ずるところである。慶長説については、慶長十四年から四十三年後の慶安五年(一六五二)、元三代藩主前田利常が神通川尻の漁場争いに関して下した裁定は、東西両岩瀬の漁場境界を当時本流だった神通古川とし、今後川筋が変っても此の定めの通りにするよう決めたものと判断される。さればこそ此の裁定が、宝永五年(一七〇八)を始め、その後の東西両岩瀬の漁場争いにも効力をもち、明治九年四月の「東岩瀬海面漁猟見取絵図」でもその通りになって、現在の漁場区域に至っていることから、自から慶長十四年転流説は消えてしまう。慶長十四年から六年後の元和元年(一六一五)、東岩瀬は草島、千原崎と共に三ケ国宿々伝馬役に指定され、宿駅としての扱いを受けるようになった。正保三年(一六四六)八月の「越中国四郡高付帳」には「浦方 東岩瀬村」の村名で草高が記されている。又、同年十月二十八日付の「東岩瀬村伝馬役銀之事」を書いた算用状があること等から、東岩瀬村の中に次第に浦方、宿方が形成されつゝある様子が窺われる。浦方は、在来の東岩瀬農漁村から町立てしていった地の者であり、宿方は、転入者を主体に成立したと考えられる。明暦二年(一六五六)に「新川郡東岩瀬宿並浦方小物成」の村御印(加賀藩が村々に課した租税告知)が下されるに至って、宿・浦の存在は完全に東岩瀬村(田地方)から分立した行政区域として出現する。即ち、寛文の新宿指定以前に宿・浦が成立していたこと、また、渡海舟櫂役九四五匁(転流後の寛文十年の御印では三十二匁増えただけ)を負担していることによって、港としての機能を既に有していたことがわかる。当時の渡海舟は五・六〇石からせいぜい一〇〇石の荷物運搬船で、能登・佐渡通いや湾岸航路に使用されたが、神通川のデルタに面した入江を港としていたと思われる。 宿方と浦方は行政上分立するものであるが、宿方形成の事情や史料等から、宿方も海上に関わり、舟役を分担したことがわかる。村御印は宿・浦共通のものであった。明暦御印に「舟橋古舟借賃八匁」がある。浦方肝煎記録の控(盛立寺文書)に、「神通川、正保五年(一六四八)に東岩瀬江川筋来候」とあることから、この支流に参勤交替時、仮舟橋を架けたものか。万治年間の主流入川以来、寛文九年に神通川が支流も含めてすべて東岩瀬へ転流し終った時点で、この舟橋役は削減されている。「千原崎の渡」が出来たからであろう。又、宿・浦地子銀(宅地税)は七七七匁で一歩の所定銀を七厘とすると、一間が六尺三寸の旧竿で計測した歩数が一万一一〇〇歩で現在の一間六尺の歩数に換算すると一万二二〇〇歩余りにあたる。これは袋町・中町(今の港町)を横切って神通川に流入していた広田用水に架けられた中橋より北の宮町、柳町の面積であると推定される。 文政社号帳に、往古東岩瀬に漁業の道を伝えた中山久太郎という者が、東岩瀬田地方の産神として山王社を建てたが、後万治三年に西岩瀬から移住した宿方の者が、西岩瀬の諏訪神社を分霊して、山王社の境内に祀った、とあるのが現在の「金屋の宮」のある場所でその前通りが宮町。宮の西側を北に直進し、浜通往環道に続く辺りが「柳町」と呼ばれた宿・浦の故地で、柳町の北部に浦方、南部から宮町へかけて宿方の家並があったのだろう。この柳町は、後に度度の洪水と高波のため流失してしまい、僅か残った土地も再び田畠に返って、「まぼろしの町」となる。大正末年、築港工事の際、川底から石地蔵が発見された。柳町の辻に立っていたものだろうか。一方、人口流入の続く宿方の家並は、往環道に沿って更に中橋以南の東岩瀬村領内に請地(借地)して建てられていった。

◇寛文の町づくり

 寛文二年(一六六二)改めて宿駅に指定されると、東岩瀬の町づくりは加賀藩の公施設の建設を中心に一挙に進展する。富山往来(寛文元年)新庄往来新道(同二年)が求心的に東岩瀬に通じ、加賀藩新川郡における政治・経済・交通上の主要の地となった。中橋より南の往環道沿い中町、大町には船宿・船持・商家・蔵宿や寺院が軒を連ねていたが、請地(村方からの借地)であっては新宿場町の中心街として相応しくなかった。そこで、寛文三年、これらの請地三十六石一斗二升五合の土地を町屋敷銀納地に転換した。そのため寛文十年の宿・浦方村御印では、地子銀が六〇四匁二分増加した。当時、一反三六〇歩の収穫高は上田で一石五斗の計算だから旧竿で八六〇〇歩強(今の九五〇〇歩)の土地が新たに宿・浦領となった。これは一歩=七厘の地子銀計算に合致する。 寛文二年、新宿の家数は「三六六軒内三軒は寺」と記録されている。 養願寺は慶長七年(一六〇二)西岩瀬の創建で、その後大町東側北の角に移って来たといわれ、宿方に属する。盛立寺は文明年間(一四六九 ~一四八七)蓮如のもとで浄土真宗に転宗し、慶長までに森から永割の地に進出して寺号を盛立寺と称したことは、同寺の記録その他で推定され、古くから永割門徒の呼称があって浦方に属する。源林が慶長年間、東岩瀬村に開基した巒昌寺は浦方に属する。いずれも慶長年代に関わりがあるのは、慶長十四年以来の宿・浦成立と呼応する。延宝三年(一六七五)六月「宗旨相改書上ケ申帳」(酒井文書)では、記載の東岩瀬村百姓戸数三十七戸の内、地元の寺の檀家は、盛立寺十一戸、養願寺三戸、巒昌寺一戸、計十五戸であるに対して残り二十二戸は、富山・西岩瀬・婦負郡安田・下村・眼目・高塚・高野・森尻・黒崎・針原中村・袋等各地の寺に属していた。又、出身地名を付けた宿・浦の屋号が多いのをみても東岩瀬は周辺村落からの新開地であることがわかる。大町往環道の南端は、永割から川縁の畠に行く「西畠通り道」でここで宿・浦の家並が切れる(今の北陸銀行支店まで)。往環道東側の奥行二十五間(今の二十六間二分五厘)を東岩瀬村との境界と定め、榎を植えた。現在大町の江尻家裏にある大榎は、その生き残りであろうか。新川郡二十四万石を支配する御郡奉行所は新宿の中心街、中町、大町の間を横町に折れ、御郡所通橋(今の宮沢八百屋前)を渡って進んだ所、遥か浜街道の松原越しに立山連峰の仰がれる閑静な場所(今の松原町)に建てられた(寛文五年)。十村寄合所(同六年)が並び、足軽屋敷が向き合ってあった。往環道沿いに東岩瀬村の領地は残り少なくなり、大町西畠通り道から西宮村領境界(今の大町と新川町の境)まで五十間余り。此処は、三十年後の元禄十一年(一六九八)に波崩れで柳町を追われた九軒の屋敷地となり九軒町と称されることになるが、村はずれの往環道端に高札場が設置されていた(寛文七年の高札文書がある)。この場所(今の谷野病院)の地籍は現在も東岩瀬村の飛地となっている。町蔵(同三年)、御蔵屋敷(同七~十一年)、御旅屋(同九年)、御蔵、御土蔵、新川詰米奉行所、御材木小屋(同十一年)等の諸施設は、人家から離れ、陸上、海上の交通運輸の利便を求めて神通川に近い西宮村領の広大な一画を占有した。往環道はこれらの施設の間を屈曲して通り抜けた。神通川縁りは、低湿地や森の未開墾地で無高(税金がかゝらない)の地であったが、その他に西宮村の田地から、寛文三年以後同十一年迄の間に計五十一石三斗一升の土地が転用された。現在の一万二三〇〇坪強に相当する。往環道は、御高札のある「御旅屋の辻」を東に折れ、御旅屋正門前通り(今の公民館前)を町蔵囲・御蔵囲に沿って進む。此の通りは現在より五間広く、両側に木を植えて火除地とした。町蔵と御蔵の囲の間を東に入ると御蔵奉行所があった(今の祇園町)。御蔵正門前(今の忠霊塔)から西へ広い通りを御木材、御塩揚場の川端に向う。土場から西宮村領内を神通川沿いに南下して千原崎に至るのが、新宿往環道の道筋で、現在の新町通りを山崎旅館前から岩瀬そば店東側へ抜ける道が往環道の名残りである。一方、港は寛文八年の南部木材の移入や大阪廻米など廻船の出入に賑わい、同十年頃から元禄九年まで、東岩瀬蔵本屋十郎左衛門が浦方十村を勤めた。

◇破壊と建設

 万治の転流が、東岩瀬に大きな繁栄をもたらした反面、新しい障害が発生することになった。洪水や寄り廻り波の直撃による川崩れ、波崩れの被害におびやかされることになったのである。元来、東岩瀬は常願寺川水系に属し、広田用水によって灌漑されていたが、神通川、常願寺川両川から与えられる恵みは、時には忽ち自然の脅威と転じた。延宝八年七月(一六八〇)、狂風暴雨に見舞われた越中の国は、各河川に大洪水を起し、米価が高騰した。東岩瀬も甚大な被害を被った。東岩瀬村は、当時総高一一三四石九斗四升二合の内、二五五石九斗四升二合が波崩れによって引高になり、同時に川口近くの柳町に住む漁撈を業とする浦方が、潰滅的打撃を受け住居を失った。しかし宿・浦や田地方領には適地が無く、止むを得ず南方の西宮村領に新天地を求め、集団移住することになった。其処は舟揚場、網干場とするに適した神通川縁りの砂置地(後に荒木町)に近かったが、その為、西宮村は八石五斗三升七合の土地(今の二二五〇坪)を浦方屋敷地として提供した。それが一番丁から四番丁までの四丁(今の幸町)である。宝暦絵図では四丁の家数五十軒の内四十九軒、新町東側十八軒の内十四軒が浦方である。ところで、その後も川崩れ、波崩れの被害は止どまるところを知らず、元禄十一年には東岩瀬村領大町西側続きの旧竿で五五二歩(二石三斗)の土地が九軒町になり同十六年には、九軒町往環道と表永割(今の表町)の間の東岩瀬村領旧竿で二〇七四歩(八石六斗四升一合)、西宮村領旧竿で五一五歩(二石一斗四升六合)が宿・浦領となった。(今の福来町の大部分)享保年代に入り、東岩瀬の町づくりは決定的段階を迎えた。

◇享保の路線変更

 享保元年(一七一六)、越中海岸全域に津浪がおそって泊町は全戸流失したという。東岩瀬では十一月二十九日巳の刻(午前十時)より三十日辰の刻(午前八時)まで一昼夜にわたり大波が打揚げ、宿・浦九十一軒が全潰あるいは半潰した。これ等の人達は、以前柳町銀納地に住んでいた時も大水害にあい、浦方の一部は四丁へ移住したが尚、下町の田地方請地(借地)に住みついていたものである。彼等は遂に、享保元年十二月八日付で西宮村領御旅屋続きの無地の野を、宿・浦の居屋敷として許可されるよう、新川御郡奉行所へ願い書を提出した。当時、往環道に家建ちすることは固く禁止されていた。(寛文七年三月十四日の達書)大英断が下されたのは、漸く享保九年(一七二四)のこと、御旅屋(藩侯が宿泊・休憩する藩営又は藩費補助の旅館)は取り壊され、大町西側の盛立寺前(今の岩瀬米穀から願了寺まで間口約二十五間)に移転した。御旅屋続きの神通川縁り無高の野が切り開かれ、新往環道は大町から「御旅屋の辻」を直進して附替えられ、新舘町が出現した(当時は今の新川町一区・同和町・新町一里塚までを称した)。高札場もその時移転した(今の成田衣料店横)。もっとも、新舘町に家建ちしたのは家を流失した下町の人達ばかりでなかった。享保年間は東岩瀬の興隆期にあたり人口の流入が目覚しかった。享保十七年から十九年(一七三二~一七三四)頃の戸数は、宿方二九八戸、浦方一八二戸、田地方一三〇戸(内百姓五十二戸)、西宮村十六戸だった。養願寺や日合氏と共に西岩瀬から渡って来たと云われる明石氏は正徳六年(一七一六)宿方本行寺となる。大村境の東岩瀬元村十八戸の一つで文亀三年(一五〇三)以来の道場だったと伝えられる浦方慶集寺は、享保三年(一七一八)に寺号が本山免許になった。蓮町村にあった正源寺が享保十三年(一七二八)に、西宮村の新庄往来道に進出した。元文元年(一七三六)に上行寺が大山町亀谷の地から大町に転入して宿方に属した。新舘町往環道の開設のきっかけとなった享保元年や、それに続く水害は東岩瀬村の田地に大損害を与え、享保十年に十五石(旧竿で三六〇〇歩)引高する結果を招いた。又、諏訪神社(今のカネヤの宮の地)西側を北上する往環道も欠壊の危機にさらされ、路線を途中で東寄りに変更し、一石一斗五升が往環道附替えのため引高された。三左衛門川にかかる橋も架け替えられ、川に斜めにかかる筋違橋となった。しかし、その後も川崩れが止まず、すぐ川端になってしまう有様だったので、思い切って安全な場所に往環道を附替えるよう、宿・浦の肝煎・組合頭連名で、御郡奉行と改作奉行に絵図を付けて願い書を提出したのが、享保十三年九月(一七二八)であった。一方、田地方(村方)も同年同月付で逆陳情し、往環道の保全については今迄自分達の負担で努力して来たが、打ち続く水害、波害にとても力が及ばないので、藩費で護岸工事をやって欲しいと訴えると共に、宿・浦から願い出ている通りに、もし新往環道が附替えられれば、多くの田地が潰れ、その上沼地に二尺から四尺の土盛りが必要なので、費用も夥しく要すると反対している。その後どういう経過を辿ったか不明だが、結局川崩れが激しいため、漸く附替えが許可になったのは二十年後の寛延元年秋(一七四八)であった。絵図では新往環道は、慶長年間に徳川家康が大街道六間、小街道三間と定めた通り、三間の幅員となっている。現在の萩浦町の通りで、そこに新舘町へ移住しないで居残っていた下町の人達が田地方から田畠を請地して家を建てた。このようにして町並の発展と共に宿方・浦方が混在していった。

◇往環道その後

 こうして宝暦の絵図が描かれるまでの往環道の遷り変わりの話は終るが、その後、安政五年(一八五八)の「東岩瀬湊之図」によると、当時往環道「千原崎の渡」の定渡船場は、草島から千原崎へのコースと、今の荒木町へのコースの二ケ所あった。又、天保三年(一八三二)の絵図によって、荒木町の川端に舟橋台があったことがわかり、弘化元年(一八四四)の記録に、広い御蔵囲古道で舟橋用の綱打ちをしたとある。参勤往環時に舟橋が架設されたのであろう。草島から荒木町へ渡ると海蔵寺前の通りを進んで新町往環道に連結するわけだが、この往環通りを天保(一八三〇~一八四四)の頃は「西新町」と称し、道の南側に西宮村金毘羅社(現在西宮神社に合祀)と火葬場と尼寺があるだけで、低湿地であった荒木町を埋立て家建ちが出来るのは、弘化以後(一八四四~)のことである。また、安永九年(一七八〇)以来新町往環道と神通川の間の西宮村領無高の地(今の海蔵寺墓地以南昭電敷地)に、草島村の与四兵衛が進出し、既に田地を開発し、更に宿・浦網干場の開発を窺っていた。この草島村与四兵衛は後、天保十年にも網干場開発で物議をかもしている。宿方諏訪神社が、浦町新往環道続きの町はずれ(今の太鼓橋東側)に遷宮したのは文政十一年(一八二八)である。此処は東岩瀬城の跡と伝えられ、周囲には最近まで「東堀」「西堀」「南堀」「北堀」という旧東岩瀬村小字名があった。享保の大洪水に流失した三左衛門川口(岩瀬運河河口あたり)を「二の曲輪」と称していたともいう。ちなみに、移転した宿方諏訪神社の跡地に、梅本町の今の尾山神社(天満宮)の地にあった、浦方諏訪神社(俗称金屋の宮)が遷って現在に至る。文政九年(一八二六)五月、宿・浦・田地方の肝煎から、浦町端から三左衛門橋に至る場所に家を建てたい旨、奉行所に願い出たが許可になったのは天保頃だろうか。浜通往環道に、漁師を中心にした浜町(今の諏訪町・天神町)が出来るのは、荒木町の出現(弘化年以後)に呼応する。網干場を失った四丁の漁師が再び浜辺へ帰り、浦町の漁師の一部も転住したといわれている。