②02. 誰でも仏に成れるはず
仏教は約2500年前の北インドで発祥しました。そしてその後、適応と変容を重ねながら世界の各地へと伝播していきました。
大きな流れに分けて、仏教の世界的な展開は「テーラワダ仏教」と「大乗仏教」の二つがあります。インドを縦断してスリランカ、そして東南アジアの諸国へと伝わっていったのが、「テーラワダ(上座部)仏教」です。テーラワダ仏教は、ビパッサナ瞑想やマインドフルネスという言葉で、近年では広く知られています。
そして、シルクロードやネパールを渡って東アジアの地域に広がったのが「大乗仏教」です。大乗仏教は、中国大陸と朝鮮半島を伝わって、島国である日本にまで伝わってきました。
「仏教新発見・法隆寺」(朝日新聞社)より
時代を越えて国境をこえて、世界に広まった仏教は、現代においても多様な発展を遂げています。しかしそれらの多様性は、必ず「諸行無常」と「諸法無我」という二つの根本的な認識に基づいています。
「諸行無常」とは、すべてのものごとは変わり続けているという認識です。
「諸法無我」とは、すべてのものごとは相互に関係しあっているという認識です。
ものごとは常に関係性の中に変化しながらあるものであって、それは決して固定的な実体として独立してあるものではありません。そうした考え方は、量子力学者ニールス・ボーアの相補性原理にも通じる考え方です。それは論理的にも実際的にも、多くの人によって同意理解されうることでしょう。この二つの基本的な認識から外れるものは、仏教ではありません。
これは、仏教にとって絶対的で不変の創造神の存在を想定することはあり得ないことを示しています。すべては今、相互に関わり合いながら常に変化するものであるとして、仏教では認識されるのです。それは例外なくすべての現象において言えることです。
「諸行無常」「諸法無我」の二つの原理から導き出される三つ目の原理として「一切皆苦」があります。物事は様々な関わり合いの中で変化しているものであるから、この世界の出来事は、誰か一人の思うようになるわけではないということです。
仏教では、世界を統治するような全能者を想定することはありません。誰もが自分の思いのままにできるわけではないのですから、一時的な満足はあったとしても、誰もが完全に自分の欲求を満たすことはできません。むしろ自己願望が強ければ強いほど、それがかなわないことによるストレスに、苦しみの感情が強くなるということです。
インターネットはとても便利なものなので、これを使えば誰にでもいろんなことができます。けれども回線に繋がることが出来なければ、その便利さを用いることができないストレスに、苦しみさえも感じることでしょう。どんなことにも、苦しみの種が宿っているということです。(どんなことにも、楽しみの種が宿っていると思いたいものですが…)
私たちは誰一人として自己中心的な視点や立場から離れることはできません。私たちは自己中心性に捉われている存在なので、誰もが思い込みと決め付けでものごとを見ているのです。
人それぞれの立場は違い、人それぞれに捉え方が違うので、なかなか意見は一致しません。むしろ意見が対立し、衝突して、感情的な問題が起きることも多くあります。自分にとって都合のいいことばかりはありません。自分の望みがすべて叶うということはありません。
現実として私たちは、自らの思い込みや決め付けによって、自らを苦しめていることが多いようです。誰もが自己中心性による思い込みや決め付けから離れることができず、それによって自分を苦しめているのです。人間の心は、根本的に欠陥があるのかもしれません。
自分の思い込みや決め付けを完全に捨て去って、ものごとをありのままに見るということができれば、「涅槃寂静」という境地に達することができると仏教では示されます。これが仏教に説かれる「悟り」です。
悟りを得た人は、この世界をありのままに見て、それを正しく認識し、ブッダ(目覚めたる人)に成れるといいます。涅槃寂静の境地にあって、それに目覚め、それを体現する存在を「ブッダ」といいます。
涅槃寂静の境地とは、完全な安心です。一切濁りのない澄み切った心そのものです。対立や閉塞や差別を越えた、平和そのものの状態です。
1「諸行無常」
すべては変化するということ
2「諸法無我」
すべては関わり合っているということ
3「一切皆苦」
自分の思うようにはならないということ
4「涅槃寂静」
安らかな心の境地はあるということ
これら四つの仏教の基本原理を「四法印」といいます。
仏教の世界観では、物事を固定した実体として捉えるのではなく、すべての存在を超越した涅槃の状態に基づく現象として捉えるのです。こうした認識を持つことによって、ブッダと成って苦しみから脱することを目標とする生き方が、仏教なのです。
前述したテーラワダ仏教と大乗仏教の2つの潮流のどちらにおいても、「四法印」は共通する基本原理です。 しかしながら、仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの説かれた内容を厳格に守ることが大切であると捉えたのがテーラワダ仏教であるのに対して、自由な発想で捉え直したのが、大乗仏教です。
テーラワダ仏教はゴータマ・ブッダの教えをできる限り本来の形で伝えようと努めてきましたが、大乗仏教はさまざまな時代、地域、社会のニーズに合わせて教えを積極的に変革し、発展させてきたのです。
大乗仏教には2000年以上の長い歴史があり、脈々と守り継がれる伝統的な側面もあります。しかしながら同時に、現実の社会に応用し、積極的に仏道の実践を行おうとする、革新的な側面もあります。持続可能性にとって、伝統も革新もどちらも必要なものであって、どちらかだけでは成り立たちません。
大乗の思想は、私たちのすべてに救いを与えるために、今も常に更新を続けていかなければなりません。現代社会に活動する大乗思想でなくては意味がありません。
涅槃という状態は確かに存在し、すべての人がそれと関係しながら生存していると信じることで、私たちは苦しみの人生を克服することができるはずなのです。自らの人生をかけがえのない一度限りの現象であると受け入れて、それを味わって生きることができるはずです。
いつかは自分でも「目覚めたる者」に成れるはずだと信じることによって、すべての人に開かれている無限の可能性が、大乗思想です。自分の生き方として、実践的に大乗仏教を修得していきたいと、私は考えています。
① 日本のスピリチュアリティ
01. 日本人の仏教観
02. ありがとう おかげさま
03. 仏と一つに成る
04. 彼岸からの光
② 仏の教えと大乗思想
02. 誰でも仏に成れるはず
③ 聖徳太子の仏法
④ 親鸞聖人が伝える信心
01. 仏法僧の3つの宝
02. 信と真と心のプラサーダ
03. 俗にそまらず 悟りすまさず
⑤ 南無阿弥陀仏を聞く