① 門徒ってそもそも何ですか? 

江戸期 / 寺請制度に基づく門徒のはじまり

徳川幕府が民衆を統治していた江戸時代の中期、キリスト教などの幕府には認められていない宗教を排斥するための政策として「寺請制度(てらうけせいど)」とよばれる、宗教統制を目的とした政策がとられました。

キリシタンなど幕府の認可しない宗教の信者ではないことを証明するには、仏教徒であることを明らかにしておく必要があったため、人々はいずれかの寺院に「檀家」として所属して「宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)」とよばれる台帳に、家族単位の氏名や生年月日などを記帳するよう義務づけられていたのです。

浄土真宗の宗旨に属する家の場合は、いずれかの宗派に所属する「手次寺(てつぎでら)」を介して、その宗派の「門徒」となります。自分の居住する地域にある「西本願寺の末寺」を手次寺とすることで「西本願寺の門徒」として登録する、というわけです。

後年になると「寺請制度」は、信仰についての取り調べをする目的よりも、現在でいう「戸籍管理」の役割を果たすようになりました。宗門人別改帳の記載から漏れるということは、幕府の統治下にある人民ではない(無宿人)ということになるわけですから、幕府公認の仏教寺院の檀家・門徒とならなければいけない必要性があったのでしょう。


一度どこかの檀家や門徒となったら、それを個人の意思によって変更することはできません。家のなかで結婚や出産があれば、それをお寺に届けます。奉公や結婚などの理由で他の土地に移る場合にも、それを届けなければいけません。どの寺に属するどの家の者だということが、社会的に認められる個人であることの証明となっていたのです。

幕藩体制の寺社奉行の管理下にあった当時の寺院は、今でいうところの地区センターや公民館や学校といったような、地域に密着した行政機関のような役割だったのでしょう。当時の人々にとってのお寺は、地域社会の基盤としてあるものだったので、寺院への所属関係は社会生活の必須条件だったのです。

生まれたときから宗教・宗派の所属関係が既に決まっているわけですから、自分の意志によって信仰を自由に選択するという考えなどありえませんでした。家の一員であることは、そのまま家の所属寺院の門徒(檀家)であることにほかなりませんでした。

いまから約300年前、それ以前より古くから東岩瀬町にあった念仏道場が、西本願寺に所属する寺院(大寺)の門徒となることによって「小寺」として公認されたのが、寺院としての慶集寺の成り立ちです。

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