① 門徒ってそもそも何ですか? 

明治・大正・昭和初期 / 家制度に基づく寺院と門徒の関係

江戸期から明治期に移ると、当時の政府によって明治民法における戸籍法が制定されて「家制度」が成立しました。

家制度とは、戸主と家族を一つの「家」という構成単位に属させて、戸主にその統率権限を与えることで「家」を取りまとめ、国家が家単位で一元的に国民を管理統制するものでした。

これによって、旧家や武家といった特別な出自に限らず、一般の庶民までが公的にも「家名(氏姓)」を名乗るようになりました。

それはすなわち、どこかの寺院の檀家(門徒)であることとは関係なく、国の戸籍に登録されることで、日本国民であることが公的に証明されるようになったということでもあります。

現在にまで受け継がれている仏壇や家墓は、戸主を中心として祖先を祀り、一家を取りまとめるための「家の象徴」として、この時代に広く一般にまで普及したものです。

当時の社会では、仏壇や家墓を護持する役割に就く者が、その家の戸主として「家督」を継承しました。そして戸主として「家父長」となった者が、先代から引き継がれる土地や家屋や財産のすべてを受け継ぐ権利があると、法律的にも認められていました。

葬儀の際の「喪主」や、法要の際の「施主」であることは、一家における「戸主」としての地位と権限を示すための、非常に大きな社会的意味があったのです。


江戸期から続く寺院と門徒(檀家)との関係は、家に伝わるならわしやしきたりと同様に代々に渡って引き継がれたため、葬儀や法要などの儀式の際には、旧来からの所属関係にあった寺院が、それを執り行うことが通常でした。

分家した家もまた、本家と同じ寺院との関わりを持つことが通例でしたので、個人の意志や信仰心とは関係なく、一族はみなすべて自動的に、同じ宗教・宗派の同じ寺院に所属するのが通例となっていたのです。

檀家(門徒)を数えるときの単位として、家をひとつのまとまりと見て「軒数」で数えるのを当然のことのようにしているのは、「家制度」の時代の名残りであるといえるでしょう。

江戸期より東岩瀬町の「小寺」としてあった慶集寺には、門徒としての所属関係がある家は一軒もありませんでした。明治・大正・昭和初期の頃の慶集寺は、東岩瀬町に居住しながら他地域の寺院の門徒としてあった家々の、日常的な仏事のお世話をしていました。このような寺と家との関係は、地域の慣習として「縁借・えんかり」と呼ばれていました。

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